今日は、ヤマネコ探しの勝負をする。
イリオモテヤマネコは、地元の人からヤママヤー、ヤマピカリャーと呼ばれてきた。
ヤママヤー、ヤマピカリャー。今日会うその生き物の名前の響きを口に馴染ませながら、厳かにその準備をする。
宿は若主人に頼んで同じ値段で延泊した。そして、野生ガイドをしていると言う若主人と社員それぞれに、ヤマネコの目撃経験や目撃情報のある地点を聴取する。ガイドを兼務する社員は、海辺の林の中で夜間ガイド中に、魚を咥えたヤマネコが目の前を通ったのを客と一緒に見たと言う。そこはガイドの資格がないと入れない所ですけどね。そんな場所があるのか。それがここ三ヶ月以内の話である。そこまでは入れなくても、近くまでは行ってみよう。他にも、目撃情報が上がっている場所を確認する。
若主人に前回と同じ値段で車を借りられないかと交渉したが、さすがにあれはあの日だけの特価で経営に支障が出ると言うので、代わりに一番安い原動機付自転車を借りることにした。返却期限は今日の22時だ。ヤマネコは基本的に夜行性だから、暗くなってから22時ぎりぎりまでの時間帯で勝負をしよう。ヤマネコに会えるか、会えないか。今日の夜にはその運命が決する。心臓がどくどくと波打つ。出がけに同じ宿に泊まる一人旅のヤンキー風女子と会い、今日は本格的にヤマネコ探しをすることを告げる。その女子もヤマネコ探しを考えているらしい。互いの健闘を祈った。
ほぼ初めての原動機付自転車で、まずは昨日のカフェに赴く。昨夜、旅の道連れにしている小さな虎のぬいぐるみが見つからず、どうやらどこかに忘れたらしいと、カフェを当たることにした。原動機付「自転車」と言ってもそれなりに重く、やっとのことで駐車する。狭い店内は昼時で混雑している。ぬいぐるみについて聞くと、ありますよと店員に言われて胸を撫で下ろす。外で待つように言われたが、人目を浴びるのが嫌で店内に留まっていると、料理を運ぶのに邪魔だからと追い出された。暑いので近くの木の下で待つことにしたが、どことなく悪いことをして教室の後ろに立たされた小学生のような氣分になる。恥ずかしさを堪えて「客の視線に晒されているわたし」に耐える。店員がビニール袋に入ったぬいぐるみを持ってきてくれて礼を言ったが、袋を開けた途端に嬉しさが吹き飛んだ。釣り具か何か、海の物を入れていたのであろう生臭さの中にわたしの虎は横たわっていた。もうちょっと違う袋はなかったんだろうか。ひとまず、見つかったからよし。次に向かう。
それから無料wi-fiを利用するために上原港に寄る。LINEの調子がおかしくなり、連絡先が一掃されてしまってその修復が必要だった。そして明日から行く石垣島の宿の手配を銀さんにお願いしていたが、その後碌に連絡が付かなくなり、自分で宿に連絡を取らなければならなかった。不測の事態で、かなり氣が氣じゃない。友人の連絡網を駆使して何とか明日からの予約を取付ける。これで、明日から石垣島で泊まることができると胸をなで下ろす。小一時間ほどこれらに費やした。さあ、心置きなくヤマネコを探す。
天氣は快晴である。外の空氣は想像以上に蒸し暑い。団扇で扇いでも熱風しか来なくてうんざりするので、団扇はあまり役には立たない。可愛さを優先したいが、そんなことよりも日焼け対策重視だ。そうやって上原港から小さな二輪車に跨る。
今日は満月で大潮だから、さすがに潮の満ち引きが大きい。東西の周遊道路から見える海は、海面がずっと沖の方に移動している。干上がった海底にヒルギ達が陸からちょぼちょぼと足を伸ばしている。銀さんのサバイバルキャンプの時は新月で見たことのないような満天の星空だったから、ちょうど二週間が経ったんだなあ。
そうして、はっとする。
みなさんは、原動機付自転車で西表島の道路を走ったことがあるだろうか。
肌に纏わりつく島の生命力が織り交ぜられた風。西表の高い山に生い茂る樹々が吐き出す蒸氣。そこここに感じる沢山の生き物達の氣配。むんむんと迫る西表島の生々しい命の空氣に全身を晒して原動機付自転車を走らせる爽快さは、今までに感じたことのない格別の感動をわたしに与えた。
一昨日車で走ったから、西表の道路は分かった氣になっていた。
けれども、外氣と遮断された車内と車外での体感とは全くの別物だった。これぞ西表。わたしは初めて西表島に出会ったのだ。
今回は、まず一昨日行かなかった野生生物保護センターより東側の大原港とその周辺の神社などを回った。周遊道路のヤマネコ親子の銅像や、大原郵便局の塀に乗ったヤマネコの置物など、『しまじま散歩 西表島スケッチ』で紹介されている目印を一つ一つ探して攻略して歩くのも楽しい。御嶽(ウタキ)、ではなくあちらでは珍しい神社もうだる暑さの中でお参りしたが、鬱蒼としている他は特に何も起こらない。閑散とした大原港を見て、腹ごなしに近くの玉盛スーパーに立寄り、現地ならではの商品を物色する。沖縄県産の玄米や紫芋などと島産のよもぎなどを発酵させた甘酒のような飲み物を発見し、非常に氣分が上がる。わたしは現地の材料で作られた食べ物に目がない。しかも上原港近くの商店には置いていなかったので、これまた新種を発見したようで嬉しい。スーパーのお手洗いを借りると、一方は詰まって調子が悪そうだった。宿の若主人が言っていたが、西表島は珊瑚でできているために下水道菅が深く掘れず、臭いが上がってきやすいと言う。恐らくここもそういった事情なのだろうと推測する。この不便さも島事情ならではである。
大原港周辺の街並みを味わい、来た道を戻りがてら、原付で初めての給油をしてみようと給油所に寄る。給油口の場所すら分からず、店員のおじさんに逐一聞きながら給油をする。料金は確か147円、こんなに安いんですね。一時間以上走ってもガソリンは全然減っていなかった。安全性は乏しくても燃費なら原付の右に出る者はいないだろう。
そして、西表野生生物保護センターを目指す途中、橋に差し掛かろうとする所で、虹を見た。その姿に息を呑む。後ろに従えた雨雲と共に、虹が門を構えたような格好でこちらにやってくる。
ーこんな光景ってあるのだろうか。
後で写真を見返すと二重の虹だ。信じられなくて、目をしばたたく。虹の根っこまで両端にくっきり見える。右手は海、左手は海に迫り出した緑の森。その境目を縫い合わせるように、雨雲を背負いながら、わたしの面前に小さな虹の門が迫ってくる。こんなに小さい虹なのに、周りの景色と一緒に収めたいのに、素人の工夫をどんなに凝らしても写真機の画角に収まりきらない。鮮やかさも削ぎ落とされている。改めて人間の眼の視野の広さや性能の高さに感服する。虹はわたしが渡ろうとする橋を跨いでいたから、頭上を通過するのも見た氣がする。確かに、見たと思う。しかし次に記憶があるのはその後に当たった雨を凌ぐ雨宿りの記憶だ。ちょうどよく現れた道端の無人販売所で、雨がいつ収まるのだろうかと少し不安になりながら、激しい雨と風をやり過ごした。信じられない物を見た、その呆然とした氣持ちや恍惚感だけが強く記憶に残っている。雨はじきに止んだ。わたしは西表の自然がかけた魔法を見せてもらったのだ。





コメント