帰郷(石垣島⑤)

 わたしが宿を去る日の朝は、それまで放棄していたお化粧をして、動きにくさを嫌厭して避けていた細身の赤いスカートを履いた。今日は少しでも華やかな方がいい。「いつもと感じが違う」みんなが口々にいい反応をしてくれるので、「別れに華を添えようと思いまして」と笑顔で返した。

 老人は少し寂しそうだった。

 彼はまだもう二日、この宿に滞在するらしい。「あと二日いればいいのに」。菌ちゃんふぁーむでも、いつまでもいてもらっていいですよと言われた。あの時は地元に帰れなくなると思って内心ぎょっとし、相手の好意に全く氣付いていなかった。わたしにはもっとここにいてもらいたい、それだけ有用な人間だったと言うことだったんだと、後からようやく氣付いた。老人や集まった人達とのお喋りは楽しくて、旅の最後の一週間は本当に充実していた。老人も楽しかったのだと思うと、少し自分が誇らしかった。女将さんが「他のお客さんと、うさちゃんはここに来た時と表情が本当に変わったねって話していたよ」と言う。わたしのことをよく見てくれている。女性に警戒心があるわたしは、周りの大人の女性達が温かく見守ってくれていたことがありがたかった。

 「空港までわたしのことを送りに来たいですか」

 老人にそう聞いたら、何、その言い方と女将さん達が大笑いする。老人があまりにも寂しそうなので心境を察して代弁してあげたのだが、こう言う言回しをすると途端に面白くなるから時々使う。「いや、いい。送って行ったらもっと寂しくなるから」自分との別れをこんなに惜しんでもらえるだけで、わたしは心が満たされた。多分、ここでさよならにはならないと思う。これからもきっと、場所を変えて時間を超えて、また会うだろう。だからわたしは寂しさよりもその未来の方にわくわくする。これで終わりじゃない。多分、始まりなんだ。

 石垣空港からこの島に降り立った時は不安と緊張でいっぱいで、こんな素敵な出会いが待っていることなど知らなかった。旅の最後に出会った人達は、常識に縛られずに自由に自分の道を選び、明確な意思を持ってその道を楽しんでいた。

 旅の最初の3分の2は帰郷までの道のりが遠くて心細くて、帰りを待ってくれている友人達に早く会いたいと、旅の行程を埋めることを重荷に感じることもあった。しかし、その予定調和が抜け落ちた空間で、わたしは安全地帯を飛び出して何とか自分を保つよう努め、心を開く鍛錬を積んだ。小さく小さく、日々密かな挑戦を求められた。旅を終えてみれば、その試行錯誤こそがわたしの成長を促してくれていたんだと氣付く。かけがえのない挑戦を重ねた日々だったんだと。見知らぬ人を警戒する必要もあったし、心を開いて落込むこともあった。最後は閉ざしかけていた心の扉を少しずつ開こうと、全く知らない人の側に行って話しかけたり、努めて自分の氣持ちを話した。この方達と楽しく過ごせるかどうかは、わたしが心を開けるかどうかにかかっている。そう言い聞かせた。夜、部屋に戻る老人にわたしの夢を告げた時のきらきらと輝く瞳が忘れられない。あんなに感動する瞬間ってあるのか、あんなに素敵な光景を目の当たりにすることができるのか。

 三週間の日々を思い出しながら、感動で胸がいっぱいになり、成田空港に向かう空の上でわたしは泣いた。帰りの飛行機で泣いたのは初めてだった。ひとしきりぐすぐすしたら、こんなに笑ったことがないと言う程のゆんたくを思い出してニヤニヤした。着陸まで全然退屈しなかった。

 本州に戻り、亡くなった従兄の家に行き旅の報告をする。仏壇に線香を上げるために蝋燭に火を灯そうとマッチを擦るが、不思議なことに火が点かず、ふと従兄の遺影に視線を移した。その時、声が聞こえた。「うさちゃん、石垣に行けてよかったね」意図せず涙が込み上げた。聞くと、従兄は亡くなる前に母代わりの方と石垣島に旅行し、ヤエヤマヤシの保護地区の近くに宿泊していた。石垣島が氣に入っていたそうだ。何たる偶然なんだろう。従兄はきっと、危なっかしいわたしの旅を見守っていてくれたに違いない。うん、行けてよかった。ありがとう。

 八重山の旅から学んだことが沢山ある。

 人生において大事なことは、物を持つことではない。経験をすることだ。持ち物はそんなにいらない。自分とぴったりくる物は必要最低限でいい。

 三週間八重山諸島に滞在した割に、荷物が少ないことを褒められた。服は基本的にラッシュガードと半袖、長ズボン等を着回して、夜はお氣に入りの南国仕様のワンピースを着て寝る。旅慣れた人の荷物は本当に少ない。必要最小限で、足りない物は現地で臨機応変に補う。

 そしてもう一つ、石垣島で出会った素敵な人達との時間から氣付いたことがある。

 わたしの中には、感動で震える心がある。

 美しい景色。魅力的な人と過ごして言葉を交わす時間、氣持ちが通じ合い心が満たされる時間。

 華麗に時空を孕む書。遠い感情を呼び起こす音色と旋律。高い知性によって紡がれる文学。今この瞬間の命を美しく切り取る絵画。

 わたしはその全てに感動していて、表に言えずに隠してきたけれども、それは子どもの頃からずっと変わらない。

 その感動の瞬間を追いかけて生きていきたい。わたしはそのために生まれてきた。

 地球って素晴らしいよね、面白いよね。感動するんだよ。

 それを体感し表現するために、この星に来たんだ。

石垣島シュノーケリング

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