はじめに
前回の記事はこちら。
初めて丹生川上神社下社にお参りした時の記事は、こちら。
前回の京都滋賀奈良の旅の『総集編』もご覧ください。
今日は年末年始特別企画で、昨日に引続き2日連続で記事を更新します。
夜見ちゃんとのぶつかり稽古をやり切り(と勝手に思っている)、阿闍梨と奈良の丹生川上神社下社と天河大辨財天社に向かいます。
『丹生の神木』

翌日の朝、東京駅から東海道新幹線に乗った阿闍梨と車内で待合せをするために、わたしは途中にある新幹線の駅にいた。
いつも遠出の大きな旅に出る時は不安でいっぱい、期待が少しという氣持ちなのだが、今回は事前にやることをやり切って腹も決め、精神的な整理もしてきたので、ただただ清々しく心が躍っている。
やっほう。車両に乗込み、座席に座っていた阿闍梨を見つけて、意気揚々と声を掛けた。京都までは約2時間。わたしは今日までに起こった様々な出来事や出会いについて小一時間話した。阿闍梨は言葉少なに聞いていて、「ちょっと色々とあって」と言いながら時折咳込み、鼻をかんだりして調子が今ひとつのようだった。「ごめんね。うさちゃんに対して怒っている訳じゃないから。ちょっと別件で氣持ちが揺さぶられていて」うん、分かっているよ。何やら色々あったんだなと、あまり掘り下げずに他の話をした。
それでも阿闍梨とのお喋りは楽しく、京都へはあっという間に着いた。ここから近鉄線に乗換えて、橿原神宮方面に南下する。その途中の駅で下車してレンタカーを借り、天川村方面に向かう。近鉄線は全席指定で特急券の購入が必要であり、ホームに着いてからそれを知ったわたし達は、慌てて駅員さんに聞いて券売機から特急券を購入した。車両は二階建てで、ほとんど乗客はいなかった。
新幹線に乗っている頃から、わたしは体調が悪い訳ではないのに、喉がイガイガしていた。近鉄線の座席に座ってからも、そのイガイガは取れない。最近、親しい人との間でこういうことがある。恐らくこれはわたしの体調の問題ではなく、阿闍梨の精神状態を受取った何かだ。例え友人と言えど、こういう類の話は大変なので、あまり引受けたくないんだけど、仕方がないと腹をくくる。
「あのね、さっきから喉が痛いんだけど、阿闍梨も喉が痛かったりするかな。言いたいけど言えないこと、抱えていることってあるかな」「聞きたいの」「聞いてあげるよ」そう言って、阿闍梨の話を聞いた。なかなかに大変な状況だろうと思われた。しんみり聞いているうちに、駅員さんから声を掛けられる。途中の駅で下車する予定だったのに、終点の橿原神宮前駅まで来てしまっていた。それなのに、堂々と椅子を倒して当たり前でしょと言わんばかりにお喋りを続ける妙齢のわたくし達女子2人、恥ずかしいことこの上ない。
再度、近鉄線で引返してレンタカーを借りた。お弁当は近くの農家野菜弁当を受取り、橿原神宮の駐車場で食べた。本当はここでやっている宿に泊まりたかったんだけれども、テレビ放映の影響でしばらく満室だという。その代わりに、他の宿の情報をもらう。よし、期待できる流れだ。
橿原神宮も以前から氣になっていたので参拝したかったのだけれど、時間がないので今回もまた素通りである。駐車場に滞在できただけで前進だ。そして道すがら、また阿闍梨の話を聞いた。溜まっていた鬱憤を吐出すように、喋り倒す阿闍梨の話が可笑しくて、涙を流して運転した。
丹生川上神社の下社に着く。薄曇りの山間部の土地は空氣が冷たく、境内には珍しく人氣がなくて閑散としている。最近、神社のFacebookで鋭意発信をしているため、こんなに人がいないのが不思議だった。あの宮司さんの姿も見えない。しばらく神馬を眺めて、本殿に向かった。風が吹いていた。
本殿にお参りをしていると、パキ、ミシと人が板の上を歩くような物音がする。「今、音がしたよね」阿闍梨が言う。うん、したね。「宮司さんかな」いやあ、いらっしゃる感じじゃないけど。その後も音が続く。「あっちから音がする」そう言って、阿闍梨が本殿の左側の方に歩いて行った。
宮司さんはいらっしゃらず、そこには、大きな御神木があった。
わたしはその存在を知らなかった。前回は宮司さんのお話が膨大で、御神木のことは知らされなかったし、わたしも認識できなかった。本当に、何度も阿闍梨に聞かれたが、本当に知らなかった。
「何か、すごく恐れ多い感じがする。見上げることができない」
ちょっと女王氣質が混じる強氣の阿闍梨が、御神木を前にしてそう言ったので驚いた。そして、御神木にご挨拶した後も、「背中を向けて下がるのが失礼な感じがする」と言って、おずおずと後退りしながら引下がったのも内心信じられなかった。そ、そんなに。あなたって、思いの外謙虚だったのね。
鈍いのか驕り昂っているいるのか分からないうさこは、こういう氣配に割と疎い。よく分かんないなあ。それでも、阿闍梨が畏怖と敬意を表している御神木には、厳かな氣持ちでご挨拶をした。木の意識と繋がろうとする。招いてくださったことへのお礼、これから天河神社と玉置神社に行くことをご報告した。返ってきた言葉は、
「よく来た。氣をつけて参れ」
男性の言葉だった。阿闍梨があなたをとても畏怖し尊敬しているので、よろしければ何か彼女にお氣持ちを知らせてください。そう付加えた。
数歩下がって、阿闍梨と一緒に御神木を眺めていた時に、どおっと風が吹いて御神木の葉が舞落ちる。その一枚が、阿闍梨の左足のそのつま先に触れるように着地した。ああ、ご挨拶だ。ねえ、葉っぱが届いたよ。阿闍梨は氣付いておらず、葉っぱを拾って嬉しそうに携帯に挟んでいた。
社務所で聞くと、今日も明日も宮司さんはご不在らしい。今回は、どう転んでも宮司さんとお話しする時間はないのねと観念した。
神社を去る時にあの階段に続く本殿を見上げると、どおっと風が吹いて、山自体が見送ってくれているようだった。御神木にも目を向けると、本当に温かくわたし達を見送ってくれているように感じた。すごく、すごく温かい。何て厳かで優しいのだろう。今日はこれを感じなさいということだったんだね、2人でそう話した。
「ねえ、見て。山の木々が笑っているように見える」
神社の向かいの森を見ながら、阿闍梨は嬉しそうだった。その前に流れる川の水は緑色に透き通っていて、阿闍梨が「龍がいる」と言う。地下に流れる水脈も、見方を変えれば地龍のようなものよねと言われて、はっとした。あまり龍には関心がなかったわたしが、初めてそこに水の流れと共にいる龍を感じた。
まとめ

前回、丹生の下社にお参りした時は、宮司さんという「人」との対話でしたが、今回は丹生の自然の中にいる見えない意識との対話をしました。
鳥居を出て車に戻ると次々に参拝者が駐車場に入ってきて、わたし達は御神木とお話しできるように人払いをしてもらったかのようでした。彼女と一緒じゃなければ感じ取れなかったことが沢山あって、それもまた感動でした。

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