ピナイサーラの滝(西表島③)

 西表島でカヌーを漕ぎたい。

 マングローブの樹々の中を、カヌーで渡ってみたい。

 せっかく西表島に来たのだから、一日だけは大枚を叩いてでもカヌーツアーに参加しようと心に誓っていた。何の伝手もなかったので、ツアー会社は竹富島で相部屋になった客室乗務員さんから聞いた所にした。昨日予約を入れたところ、今日は午前中だけの予約が入っていて、カヌーと、ピナイサーラの滝を下から眺める滝壺までの経路のみの開催だと言う。午後までかける一日の日程と比べると少々割高に感じたが、この日程しか開催できないと言うので折れることにする。客室乗務員さんから聞いた話では、滝の上まで行ってそこで食べたおやつが美味しかったらしいのだが、残念だけれどもまたの機会だ。

 待合せ時間が早く、宿で作ってもらったおにぎりと一緒に迎えの車に乗る。今日は、わたしの他におじさま二人での散策になるらしい。事務所で着替えをして、必要な装備を借りて車でカヌー置き場まで移動する。おじさま二人は何だか悪友と言うのか、終始親しげに憎まれ口を叩き合っている。仲が良さそうだな。『オリガ・モリソヴナの反語法』(米原万里著)を思い出す。少しずつお互いにどんな関係なのか聞き合うと、同じ会社の立場としては上司と下役のような関係のようだが、年齢はほぼ一緒でよくこうやって石垣島を中心に旅行に来るらしい。今日は朝の便で石垣島から西表島に来て、このツアーが終わったら日帰りでまた石垣島に戻るそうだ。

 森の中で車を停めて、川のカヌー置き場まで少し下る。こんな所にカヌーを係留しているんだ。そう思うくらいに、一般人のわたしにとっては森の中は目印も何もなく、細い山道があるだけの場所だ。下って行くと、やはりカヌーが何艇か括り付けてあって、それを解く。正式にはこれはカヌーではなく、カヤックだと言われたような氣がする。わたしは一人用に、おじさま二人は仲良く二人乗りのカヤックに乗った。わりかし体格が大きい上司のおじさまの方が体力的には自信がないとのことでカヤックの前に、細身で部下のおじさまの方が野外活動には向いているらしく、方向指示を司どる後ろに乗り、きゃあきゃあ言いながら漕ぎ出す。

 今日は土砂降りの予報なのだとガイドさんがしきりに雨雲情報を氣にする。それなのに、不思議なことに西表島にだけ雲がかかっていないのだと言う。その通りで、初めは青空さえ見えていた。わたしが行った波照間島や竹富島と違って西表島には高い山があり、そのため山に雲が留まり雨が降る。西表のこの雄大な大自然は、その雨にも支えられているのだろう。

 乗り場の川幅は割と狭く、そこから川を下っているのか上っているのか分からないぐらいに緩やかな流れの中を漕ぐ。西表の川の水は深緑色に濁っていて、川の中は全く見えない。魚が泳いでいるのかどうかもよく分からない。アマゾンの大河みたいに突然巨大な魚が飛び上がってきたりしないだろうかなどと、子どものような空想をして内心どきどきする。未知の川体験だ。少し慣れてきたら、ヒルギ達が水面すれすれに張り出した枝の下をくぐって、あの蛸足のような根っこのぎりぎりまで近寄る。調子に乗って思いの外頭の高さがすれすれだったりすると、屈む方向の咄嗟の判断にひやっとしながらも楽しい。ピナイサーラの滝が背景に入る場所で、記念撮影をしてもらう。そうして、ゆったりゆったり川の上を漕ぐ。しばらく行くと、他のツアー会社の客も続々と集まる場所に着く。そこからカヤックを降りて山道に入る。これから滝壺を目指して山道をひたすら歩く。山道は土だったりサキシマスオウのような板根の間だったり、岩場の中を歩いていく。西表島が世界遺産に登録されてから観光客が増加し、足場になる岩が人の足跡の形に沿って削れたり擦れたりしている。この様子を見て、自然の景観や形状を守ることと、観光業との相反する葛藤や議論が生じるのだと言う。

 山道の途中では、あちらの方言でトントンミーと呼ばれる小さなハゼの群れがヒルギ達の浅い根の間に張った水辺を跳ねていたり、カタツムリの形に似ているミドリタニシ、蛸の足のような強靭な根を張る赤木、本来は木の上にいてなかなか目にすることが少ないキノボリトカゲ、岩肌の穴の中にいる赤い蟹など、初めてみる生き物達に数多く出会う。他のツアーガイドさんはハブを見たらしい。戦々恐々としていると、ハブも自分から仕掛けてくることはまずないらしく、悪戯をされなければ攻撃してくることはないと言う。そんなことを聞いても心はちっとも休まらないけれど。そんな話を聞きながら、木々の葉の緑を透かした光が降りてくる岩場をひたすら歩く。上司的なおじさまは足元がおぼつかくなってきたようで、おじさまに速度を合わせながら滝壺を目指す。割と高低差のある陸路だ。雨は未だ西表の上空を避けて通り、森に入ってぱらぱらと雨粒が落ちて来る程度を保っている。ガイドさんが「まだ雲が西表にかかっていないんだよなあ、ほらね。もしかしたら帰りまで保つかもしれない。」と不思議そうに携帯電話を見せる。しかし、岩肌は雨に濡れているため、歩くには多少慎重を要する。細身のおじさまは上司役のおじさまを氣遣いながらも、ご自身は飄々としている。二人のおじさま方を見ていて、人というのは不思議なものだなと思う。社会的な立場が森の中でも通用する訳ではない。恐らく、ここでは社内の立場と逆転している。彼らはむしろ、その逆転した関係を楽しんでいるように見えた。そんな風に馬が合い、仲良くしているおじさま方が微笑ましかった。傾斜がきつくなってきた。滝が近い。

 滝はかなりの落差があった。「さて、この滝の落差は何メートルあるでしょうか」ガイドさんから問題を出されたその長さが、記憶から出てこない。滝壺に入っている人もいたが、この日は肌寒く水も冷たかったので、わたしは滝壺に入るのは控えた。滝壺も川同様に濁っていて底が見えないが、ガイドさん曰く色んな落とし物が落ちているそうで、携帯電話や腕時計やらゴーグルやらを潜って拾いに行ったと話していた。人がいる所にはどこだろうと文明の利器や人工物が運び込まれるのね、滝壺でさえも。滝の下でお茶とガイドさん手作りの名前を忘れた地元のおやつを頂いて、下山した。

 帰りのカヤックでは雨が降った。どんよりと雲が詰め寄せる空の下で、広くなった川の河口から海の上にぽつぽつと生えている低木のヒルギ達が見える。この光景も西表島ならではだ。それらが雨にけぶる。ガイドさんは海からの雨の景色が水墨画のようで綺麗だと言うが、わたしにとってはこの景色だけでも十分に水墨画に匹敵する美しさに感じられた。何て美しいのだろう。見惚れて視界に焼付ける。日常生活では雨が降ったら傘をさすが、ここでは雨に打たれたまま川を行く。不思議な感覚に可笑しくなる。身の置き場所によって、同じ人間なのに行動が変わる。自然の中にいたら、人間にも傘はいらない。

 川から上がり、事務所に戻って着替えを済ますと、徒歩もカヤックもゆっくりしか移動していないのに、全身が程よい疲れで氣怠かった。カヤックも意外と腕全体の筋力を使う。おじさま二人はこれから高速船で石垣島に戻り、ホテルで海を見ながらビールを飲むと張り切っていた。そんな休暇の過ごし方もいいですよね。ガイドさんと別れ、昼食を食べに目を付けていたお洒落そうなカフェに向かう。午後はやることがなく、結局旅の記録を付ける。どこに行っても書いている。島の黒糖がけのバニラアイスクリームなんかも食べてみる。

 ああ、晴れてきた。快晴だ。カフェの窓越しに模様の影を透かして差込む陽の光がきらきらと輝いている。

うさこ
うさこ

本編で触れるはずが、全然触れられなかったマングローブの植生について、引続き面白く、参考になったので貼っておきます。

月に操られた、命のゆりかご ~マングローブの生態~ その①|日本花卉文化株式会社
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