『仁義なき戦い』父と母を許せなかったわたし|わたしを織りなす物語③

うさ旅

はじめに

 母の記事はこちら。父の記事はこちら

 父と母との間で感じた怒りが爆発して、わたしは自分で「仁義なき戦い」と呼んでいる爆発期間へと突入しました。

 今回の話は怒りの描写が多いので、呼んでいて反発心を覚えたり辛くなったりするかもしれません。一度、ここは書き切りたいと思うので、その点はご了承ください。

 『わたしを織りなす物語』第三話です。

今回も更新が遅くなってごめんなさい(汗)。

『仁義なき戦い』

 一度、父と母に対する我慢の糸が切れたら、全てのことに対しての怒りが抑えられなくなった。

 父と母も高齢になってきたけれども、そんなことで手を緩めるつもりはなかった。わたしが子どもの頃、父と母が若かった時代にちゃんとわたしの不満を受止めていれば、今頃こんなことにはなっていないのだ。恨むなら、当時の対応を誤った自分達を恨めばいい。でも、人生で今日が一番若い日だ。生きているうちにこのツケを払う機会をあたしが与えてやっているんだ。生きているうちにちゃんと人生の澱を解消できるのだから、それでいいじゃない。

 感謝よりも、親の愛情を認識することよりも、そんなことよりも怒りの解消が先だった。

 そんなに怒りが抑えられないなら、実家を出ればいいじゃない。そんな声も当然聞こえてくると思うが、わたしの人生を前に進めるためには、この両親との関係を改善して自分の中の怒りを解消しないことには、自分が前には進めないと思った。だから、周りに何と言われようが、ここはやり切るしかない、やり切りたいと思っていた。

 わたしは7歳の頃から母の愚痴の聞き役だった。母の話は重たいし、子どものわたしには長時間話を聞かされるのは精神的にも負担だったが、母のためと思って我慢して聞いていた。わたしはわたしを母のゴミ箱だったと思ってきた。

 母は、褒めることも苦手で、褒められたりわたしのことで喜んでもらったことはほとんどない。ダメ出し、指摘、注意だらけだった氣がする。

 そして家の中は掃除もせずに埃まみれだ。本人は、自分が一番綺麗好きだと思っているが、それは事実ではない。片付けも整理整頓も苦手で、隙間に物を突っ込めばいいと思っているから、しまうべき場所と物がごちゃごちゃで、ワイングラスの上に台拭きが押し込まれていたりする。

 実家を建てて四半世紀になるが内装はそんなに古くなく、それにも関わらず居間の長椅子の脚にも至部屋の天井にも蜘蛛の巣が張っていて、家の中は書類やら何やら、母の物が全く整理されずに山積みになり、そこに埃が溜まっている。台所のゴミ箱は日々の手垢で汚れ、床も汚れが溜まって黒ずんでいる。

 母は父の衛生観念の低さを非難するが、母自身が掃除も片付けも苦手でであることは完全に棚の上に上げられている。

 わたしは、わたしの意見や考えが母に無視され、蔑ろにされてきたのに、その母が長年溜め込んできた掃除を、母の代わりにわたしにやれと押し付けてくるのが我慢ならなかった。お風呂場も床や蛇口がカビや水垢でヌメヌメして変色しているものの、足が悪いとか年だとか言われても、全くやりたくなかった。

 何でお前が長年溜めた汚れをあたしが掃除しなきゃいけないんだよ。

 父に謝れと言う割には、母自身はわたしに対して害を与えたことには一切謝らない。他人を責めているので、自分がいざ謝ろうとすると、とんでもないダメな人間だと自分に烙印を押すことになるのが辛過ぎるのだろう。他人を責める分だけ、自分を許す敷居も高くなる。それを誤魔化すために、さらに相手を責める。凄まじい悪循環だ。

 父は父でとても自分勝手で自分本位な人だった。

 だからわたしは、父の関心を得るために、父から褒めてもらうために、感情を振り回されながらも、父の言うことをそのまま鵜呑みにする勢いで吸収してきた。

 けれども父は社会的常識や一般的感覚からずれていて、そのことを全く自覚できていない人間なので、わたしは社会に出てから、父から言われたことが全く役に立たないどころか、自分が使えない社会人として仕上がっていたことを痛感した。同時に、父がどれだけできない人間なのかが理解できて、父が稼げないことにより被った精神的負担への怒りもさらに燃え盛った。

 お前らに奪われたあたしの時間を返せよ。

 親から唾を吐きかけられたことはない。暴力を振るわれたこともない。けれども、言葉によって、父と母の態度によって、ビンタをされたり殴られたような、一方的に腕を掴んで振り回されてお菓子やジュースで汚される人形のような氣持ちで生きていた。

 そんなわたしに対して日常的に精神的な暴力を振るいながら、ご飯を用意してあげた、学費を用意してあげたと自分達がやってやったことばかりを主張する両親が、こんなに都合のいい大人っていないだろという風に思えた。

 両親にとって都合のいい人形のように、わたしの人格を無視されて一方的な関わり方をされたことへの怒り。

 わたしがどれだけ自分を犠牲にして、家族のことを思って両親に貢献しようとしてきたのかを誰も理解してないこと、誰もその意味や価値を感じていないことへの怒り。

 幼少期から何十年も両親に言えずに溜めに溜めた怒りが爆発し、紙の上に書いても書いても止まらなかった。やり切りたいと言ったはずなのに、親への怒りの解消に終わりが見えない。

 家中のガラスを粉々に割ってやりたい衝動に何度も駆られた。老人虐待にならないだけいいと思ってよ。心の中で、毎日そう思っていた。

 福祉的・心理学的には怒りの裏には悲しみがあるとされる。でも、表層の怒りが分厚すぎて、悲しみの層に全く届かない。

 この戦いが2年目に入った年のお盆に、弟が帰省してこう言われた。「お姉の顔の周りに黒い影が見えた。本当にこのままではやばいと思った」。

 そうして、色々とたしなめられ諭されたが、そのことで余計に怒りが湧いた。怒りは収まらず、将来的に親と縁を切りたいと思った。

 そんな時に父が話しかけてきた。父への怒りをむき出しにした。すると、父がこう言ったのだ。「そんなに嫌いなら、縁を切ってもらって構わんから。」

 おや。

 「それでうさこさんが前に進めるのならそれでいいから」

 わたしはこう答えた。

 「よかったです。そうしたいと思っていたんで」

 これで言質を取った。母にはまた個別に確認しよう。少し氣分が収まった。

 それにしても、父はここまで来ても、娘との縁を保つためにがむしゃらに努力することよりも、自分が努力しないことを取るんだなと、軽蔑すると同時に悲しくもあった。父はどこまで行っても、自分が努力することを厭うのだ。

まとめ

うさこ
うさこ

ちょっと今回は、わたしが両親のことを責め続けている文章なので、読んでいて辛くなってしまったらごめんなさい。人が誰かや何かを責めている感情を見せつけられるのって、見ていてしんどいと思います。でも、ここを描き切らないと次の展開に進んだ時の効果が落ちてしまうので、このまま置いておきます。

わたしは少なくとも思春期からつい最近まで、ずっとこんな状態で生きていたんです。

潜在意識の層では主語がなく、自分も他人も区別していないので、両親を責めると言うことは自分を責めているのと同じです。だから、わたしは矛先を外に向けているつもりで、自分のこともずっと苛んできたんですよね。

わたしは、自分がこんなに怒りを抱えるような人間になってしまったことも悲しかったんだと思います。

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