『仁義なき戦い』|親への仁義を捨てた日々(わたしを織りなす物語③)

随筆

はじめに

 前回までの記事▶︎①『母|否定と抑圧』、②『父|怒りと軽蔑』

 父と母との間で感じた怒りが爆発して、わたしは自分で「仁義なき戦い」と呼ぶ状況へと突入しました。

 仁義を捨てるという意味は、親だから嫌なことでも許容するとか、親だから我慢をするとか、自分の本音を押込めるとか、わたしが反発したら親が悲しむとか、そういう親への配慮をやめるということです。親を想う氣持ちよりも、自分の痛みを優先しようと思った。それは、自分の軸を取戻すためでもあったのだと思います。

 親への怒りが止められない人、親との間で割り切れない感情がある方には共感してもらえる内容ではないでしょうか。

 『わたしを織りなす物語』第三話です。

 『仁義なき戦い』

 一度、父と母に対する我慢の糸が切れたら、全てのことに対しての怒りが抑えられなくなった。

 父と母も高齢になってきたけれども、そんなことで手を緩めるつもりはなかった。わたしが子どもの頃、父と母が若かった時代にちゃんとわたしの不満を受止めていれば、今頃こんなことにはなっていないのである。恨むなら、当時の対応を誤った自分達を恨めばいい。でも、人生で今日が一番若い日だ。生きているうちにこのツケを払う機会をあたしが与えてやっているんだ。生きているうちにちゃんと人生の澱を解消できるのだから、それでいいじゃない。

 感謝よりも、親の愛情を認識することよりも、そんなことよりも怒りの解消が先だった。

 そんなに怒りが抑えられないなら、実家を出ればいいじゃない。そんな声も当然聞こえてくると思うが、わたしの人生を前に進めるためには、この両親への怒りを解消して関係を改善することがどうしても必要だと思った。そうじゃないと、わたしも自分の子どもに父や母の文句を言うことになる。実家に未来の家族を連れて行きたくないと思う。そんな関係では、未来のわたしの子どもが健全に育たない。

 だから、周りに何と言われようが、ここはやり切るしかない、やり切りたいと思っていた。

 わたしは7歳の頃から母の愚痴の聞き役だった。母の話は重たいし、子どものわたしには長時間話を聞かされることは精神的にも負担だったが、母のためと思って我慢して付合っていた。わたしはわたしを母のゴミ箱だと思ってきた。

 母は、褒めることも苦手だった。母から褒められたり、母にわたしのことで喜んでもらった記憶はほとんどない。ダメ出し、指摘、注意だらけだった氣がする。

 そして家の中は掃除もせずに埃まみれだ。本人は、自分が一番綺麗好きだと思っているが、それは単なる母の主観的事象であって、客観的事実ではない。片付けも整理整頓も苦手で、隙間に物を突っ込めばいいと思っているから、しまうべき場所と物がごちゃごちゃで、ワイングラスの上に台拭きが押し込まれていたりする。

 実家を建てて四半世紀になるが内装はそんなに古くない。それなのに玄関にも居間の長椅子の脚にも部屋の天井にも蜘蛛の巣が張っていて、家の中は書類やら何やら、母の物が全く整理されずに山積みになり、そこに埃が溜まっている。台所のゴミ箱は日々の手垢で汚れ、床も汚れが溜まって黒ずんでいる。

 母は父の衛生観念の低さを非難するが、母自身が掃除も片付けも苦手でであることは完全に棚の上に上げられている。

 わたしは、わたしの意見や考えが母に無視され、蔑ろにされてきたのに、その母が長年溜め込んできた掃除を、母の代わりにわたしにやれと押し付けてくるのが我慢ならなかった。お風呂場も床や蛇口がカビや水垢でヌメヌメして変色している。でも、母にいくら足が悪いとか年だとか言われても、絶対にやりたくなかった。

 何でお前が長年溜めた汚れをあたしが掃除しなきゃいけないんだよ。

 父に謝れと言う割には、母はわたしに対して害を与えたことを一切謝らない。他人を責めているので、自分がいざ謝ろうとすると、とんでもないダメな人間だと自分に烙印を押すような氣持ちになって辛いのだろう。

 他人を責める分だけ、自分を許す敷居も高くなる。それを誤魔化すために、さらに相手を責める。凄まじい悪循環だ。

 父は父でとても自分勝手でわがままな人だった。

 だからわたしは、父の関心を得るために、父から褒めてもらうために、感情を振り回されながらも、父の言うことをそのまま鵜呑みにするように吸収してきた。

 けれども実際の父は社会的常識や一般的感覚からずれていて、そのことを全く自覚できていない人間だった。なのでわたしは社会に出てから、父から言われたことが役に立たないどころか、父から吸収した観念や習慣によって、自分が「使えない社会人」として仕上がっていたことをようやく痛感した。同時に、父がどれだけできない人間なのかが理解できて、父が稼げないことにより被った精神的負担への怒りもさらに燃え上がった。

 この両親でなければ、わたしはこんなに遠回りはしなかった。この両親の元に生まれたことで、要らぬ苦労を沢山経験した。

 お前らに奪われたあたしの時間を返せよ。

 親から唾を吐きかけられたことはない。暴力を振るわれたこともない。お金で嫌な思いをしたことはあっても、お金に困ったことはない。けれども、言葉によって、父と母の態度によって、ビンタをされたり殴られたような、一方的に腕を掴んで振り回されてお菓子やジュースをこぼして汚される人形のような、そんな氣持ちで生きていた。

 わたしに対して日常的に精神的な暴力を振るいながら、ご飯を用意してあげた、学費を用意してあげたと自分達がやってやったことばかりを押付けてくる両親が、甚だ都合のいい大人のように見えた。

 怒りは膨れ上がっていく。

 両親にとって都合のいい人形のように、わたしという人格を無視されて、一方的な関わり方をされたこと。

 わたしがどれだけ自分を犠牲にして、家族のことを思って両親に貢献しようとしてきたのかを誰も理解してないこと、誰もその意味や価値を感じていないこと。

 幼少期から何十年も両親に言えずに溜めに溜めた怒りが爆発し、紙の上に書いても書いても止まらなかった。やり切りたいと自分で言ったはずなのに、親への怒りに終わりが見えない。

 怒りで家中のガラスを粉々に割ってやりたい。そんな衝動に何度も駆られた。老人虐待にならないだけいいと思ってよ。心の中で、毎日そう吐き捨てた。

 福祉的・心理学的には怒りの裏には悲しみがあるとされる。でも、表層の怒りが分厚すぎて、悲しみの層に全く届かない。

 この戦いが2年目に入った年のお盆に、帰省した弟にこう言われた。「お姉の顔の周りに黒い影が見えた。本当にこのままではやばいと思った」。

 そうして、弟から色々とたしなめられ諭されたが、そのことで余計に親への怒りが湧いた。怒りは収まらず、将来的には親と縁を切りたいと思った。

 そんな時に父が話しかけてきた。煮えたぎっていた父への怒りをむき出しにした。すると、父がこう言ったのだ。「そんなに嫌なら、縁を切ってもらって構わんから。」

 おや。

 「それでうさこさんが前に進めるのならそれでいいから」

 わたしはこう答えた。

 「よかったです。そうしたいと思っていたんで」

 これで言質を取った。母にはまた個別に確認しよう。少し氣分が収まった。

 それにしても、父は娘との関係が最終的な危機に直面しても、状況を打開するための方策を考えたり、自分を変えるための努力ができないんだなと、軽蔑すると同時に悲しくもあった。父は、自分の人間性を成長させるために自分が変わる努力をすることをどこまでも厭うのだ。どこまでも幼く、どこまでも自分本位な人だったのだ。

まとめ

うさこ
うさこ

 ちょっと今回は、わたしが両親のことを責め続けている文章なので、読んでいて辛くなってしまったらごめんなさい。人が誰かや何かを責めている感情を見せつけられるのって、見ていてしんどいし、批判的な感情も湧いてくると思います。

 でも、ここを描き切らないと次の展開に進んだ時の効果が落ちてしまうので、このまま置いておきます。

 わたしは少なくとも思春期からつい最近まで、ずっとこんな状態で生きていました。

 潜在意識の層では主語がなく、自分も他人も区別していないので、両親を責めると言うことは自分を責めているのと同じです。だから、わたしは矛先を外に向けていたつもりで、自分のこともずっと苛んできたんですよね。

 わたしは、自分がいつの間にかこんなに怒りを抱えるような人間になってしまったことも悲しかったんだと思います。

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