『母』|わたしを織りなす物語①

随筆

はじめに

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 母との関係に苦しんだ経験はありますか。

 私は子どもの頃から、何を言っても否定されるような感覚を抱いて育ちました。母の言葉に傷つき、自分の意見を言うことが怖くなり、思春期になる頃には「自分には価値がない」と思うようになっていました。

 今回は、幼少期から大人になるまでの母との関係を振り返りながら、自己否定感の根っこにあったものについて綴ります。親子関係に悩んでいる方や、長女として我慢を重ねてきた方に読んでいただけたら嬉しいです。

『母』

 母に関する記憶で一番古いのは、おそらく年中か年長の頃、幼児期のものだ。

 わたしは子どもの頃はお父さんっ子で、父が一緒じゃないと何をするのも嫌だった。父は明るく優しくて、わたしを可愛がってくれた。弟が生まれて両親を独占めできなくなったわたしは、自分の愛情の所在として、母は弟、父は自分と自分の中で区別して、弟の出現によって内心大幅に揺さぶられている心の平静を幼心ながらに保とうとしていた。なぜ父の方が好きで、母はそうではなかったのかは、子ども心にもよく分からない。何となく。明確な理由は言葉にできなかった。

 そんな風だったので、朝も起こしてもらいたいのは父だった。ある朝、父が何かをやっているとかでわたしを起こしに来られないので、母が代わりにわたしの寝床まで来てくれた。わたしは無邪氣に母を断固拒否し、「お父さんがいいのっ」と繰返した。今日は一緒にお母さんと行こうよ、とどんなに母が機嫌を取ってわたしを宥めようとしても、「いやっ。お父さんっ」と言い張り聞かなかった。子どものこの無邪氣な好き嫌いの意思表示って、凶器ですよね。

 すると、母が傷ついたような顔をしてわたしを見た。その顔を見て、「こわい」と思った。

 「この人こわい」

 それがわたしが覚えている範囲での最初の母の記憶だった。母は、父に比べて持っている空氣の温度が低くて固かった。それは大人になるまでわたしの脳裏に居座った。

 小学校一年生の時、秋の授業参観で新聞紙と色の付いた紐で洋服を作ろうという図工の時間があった。同級生のやっちゃんはとても利発で行動が素早く、お尻の上に大きなリボンの付いたドレスのスカートを学級内の誰よりも早く作って、参観に来た保護者達をどよめかせていた。わたしは、ありきたりだけれども新聞紙で上着を作り、それを色とりどりの紐で飾り付けた服を作った。発表のぎりぎりまで作業をして、こんな服は誰でも作れるかもしれないけど、と少し不安になりながら何とか飛び込みでみんなの前に立った。「うさこちゃんのお洋服が可愛いと思います」他の子から褒められて、当時人前に出ると赤面する癖があったわたしは、赤い頬がさらに熱くなるのを感じながら、ちょっと誇らしくなって授業が終わった。

 そして母の元に行った時、母はわたしにこう言った。「そんな服、誰でも作れるっ。あんたもやっちゃんみたいな服を作らないと」母は怒っていた。ものすごく傷ついたが、母が内心劣等感を感じているのも伝わってきた。

 父は、勤めていた会社を辞め、個人事務所を立上げて自営業をしていた。けれども、事務所の建設からその後の経営に至るまで、収支の計算が苦手だったようで、湯水のように母にお金の無心をしていた。生活費を入れられないどころか、母の貯金を使い込むこともあった。

 小学校中学年から中学生の頃には、母がいつも父への不満と怒りを周囲に撒き散らすようになった。「家に全くお金を入れない」「退職した時の約束と違う」「父親としての役目を果たしていない」次第に聞いているこっちが嫌になる位に、口を開けば父への非難と不満が噴き出してきた。母の言い分が正論なだけに、わたしは母の味方をするために、大好きだった父を嫌いにならなければならなかった。母との関係が負担で、粘膜に理由不明のジュクジュクした皮膚炎ができた。

 中学生の時、理由を忘れたけれども家にいるのがほとほと苦痛で嫌になり、家出をしたいと思った。けれども、友達の家に行こうと、関東の親戚の家に逃げようと、いずれは母達に連絡が行く。そうすると相手方に迷惑をかけるのは目に見えている。そんな分かり切ったことはできなかった。どこにも逃げ場がない。自分が檻の中にいるようだった。こんなに辛い思いをするのは、わたしに生きている価値がないからだ。この時に何となくそう思っていたことを思い出す。

 母は祖父の影響で政治の話が好きだった。高校生の時、母との会話の糸口としてわたしも母から聞いた政治の話を基に自分の意見を話すようになった。母から「それは違う」と怖い顔をして言われた。何回か「違うっ」と言われたので、そう言われないように考えに考えて、紙に意見をまとめて、ある日、考えたことを勇氣を出して母に伝えたら、「違うっ、そうじゃないっ」と言われた。わたしの意見や考えは、そんなにだめなのか。自己否定感は最高潮で、高校一年の秋には自分の悪口を書いていた。母への苦痛から、左手の親指の付け根に黒子状の色素が沈着した。

 高校二年の時、母の日にカーネーションを買って帰ろうかと思った。けれども、母は実用主義の人だから、「そんな花よりも、肩叩き券の方がいい」と言われるかもしれないと思い、迷った末に買わなかった。帰宅して母に「きっとそう言うと思ったから、カーネーションは買ってこなかった」と伝えたら、母は案の定「そうだねっ、そんな使えない物より肩叩き券の方がいいねっ」と言った。涙が出そうだった。

 大学の時に、それまで大人が敷いた道の上をただ歩いて、言う通りにしていれば怒られないんでしょと主体性を放棄して生きていたわたしは、進路決定を迫られて鬱状態になった。本当は資格取得のために大学院に行きたかったが、院に進学する自信は毛の先程もなかった。わたしは何もできない人間だと思っていた。

 何とか鬱状態を脱して大学も卒業し、数年間のニート時代を経て公務員になった。お給料で地元の百貨店で夏用のサンダルを買った。お氣に入りで母に見せた。母は、「なあに、その安っぽい靴っ」と吐き捨てるように(とわたしには感じられた)わたしに言った。少し大人になったわたしは、手紙で母に抗議した。

 言えば必ず否定される。

 わたしの脳内には、自分の意見は否定されるものという公式が出来上がり、深く根を張っていた。仕事で使う会議資料を作る時も、自分の意見と否定される恐怖とが葛藤して異様に時間がかかる。生きるのが苦しかった。

 退職して貯金もなくなり、退職の事実を打ち明けて実家に戻った。わたしの荷物を収めるために実家の戸棚を整理し、母が長年蓄積した汚れと不用物を片付けていたが、弟が帰省した途端に「あんたが掃除するのが当然でしょ」と言わんばかりに態度が急変した。掃除と片付けは「わたしが勝手にやっていること」になった。家を汚したのはあなただよね、そう言いたい氣持ちを堪えて掃除をした。家全体の掃除は、心が折れてできなかった。

 母は相変わらず、わたしが口を開けば「つうか、こういうことでしょ」と、何を言っても反対意見を当ててきて、わたしの意見は間違っているとばかりに修正してきた。何度もわたしの氣持ちを伝えたり、母の胸の奥にある氣持ちを掘り起こそうと話を聞き、良好な関係構築に努めたが、何を言ってもわたしの意見を否定、修正してくる母に、ある日、とうとう堪忍袋の緒が切れた。

 「お母さんは、あたしのことを否定ばっかりだ」

 家庭内別居。まるでアパートで隣の人と鉢合わせをしたかのように、他人のように接した。挨拶をされても、話しかけられても無視をした。ここまでしなければ、この母は自分を省みることはないだろう。そんな思いでやった。仁義なき戦いだった。

 去年、手相を見てもらった。手の平のほくろを見てこう言われた。「ここは身内を表す場所で、ここにほくろがあるということは、ご家族で誰か大変な方がいらっしゃったんでしょうか」まさに母のことだったから、そんなことも分かるのかと内心驚愕した。

まとめ

うさこ
うさこ

 色んな親子関係がありますが、わたしの両親はわたしにとってはなかなかに大変な人達で、特に子どもの頃から社会人になるまでは大変な思いをしました。

 反面、お金で嫌な思いはしたけれど、お金に困ったことは一切なかったし、習い事も沢山させてもらっていて大学にも行かせてもらえた(それをわたしは活かせる状態ではなかった)こと、母は働きながらも手料理は欠かさずに作ってくれて、味付けは大雑把なのに美味しかったことなど、母がわたしにしてくれたことも沢山ありましたが、辛いことがある時は、そういう恩恵にはどうしても目が向けられないものですよね。

 わたしのブログを読んでくださっている方にも、似たような境遇にある方はいらっしゃるでしょうか。わたしは第一子の長女だから、我慢と怒りもひとしおです。

 親子関係というのは、修行ですよね。


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