はじめに
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ちょっと興味深い出来事がありまして。
みなさんは、職場でプライドが高い若手の態度にモヤモヤしたり、反対に、つい周りにマウンティングしてしまう自分に悩んでいたりしませんか?今回は、学歴社会で育った私たちが陥りがちな強い承認欲求の原因と、本当の意味で大人になることについて、実体験から考えた随筆です。
『大人になること』
先日、大人になるということについて深く考えさせられることがあった。
ある友人間での出来事だった。若手の人が何かある度に自論を展開して年配の方に対して指導的な態度を取っていた。最初は年配の方も聞き流していたが、度重なる指摘に耐えかねて反論し、その場に一瞬緊張が走った。周囲の人の話によれば、若手が指摘した内容は現代の若者の時流には敵うが、一般的な理解とは異なるようだった。その年配者も勿論、そのことは知っていた。しかし、若手は自分の認識が実は限られた狭い範囲の事実でしかないことを知らなかった。そして、年配者には若手に勝る知識と技術と人生経験があったから、それらを軽視した若手の態度も氣分を害する一因となったようだった。
実はわたしも、この若手から度々優位性を誇示されるような話や態度を取られていた。けれども、関係性に支障のあるほどではなかったし、根は悪い人ではなかったし、何よりわたしは少し前に同じような態度を取って、他の場面で周囲の方々に少々ご迷惑をかけていたので、この若手の心の奥にある物が想像できたから、「すごいですねえ」なんてとぼけたふりをして適当にかわしていた。
この若手は優秀な頭脳を備えた高い学歴の持ち主だった。話していても、頭がいいことは感じ取れた。
わたしを含めて、現代に生きるわたし達は戦後の学歴社会の中で育った。より知識を獲得している者や人より試験の点数が高い者、誰かより秀でた実力を持っている人が評価された。大人の評価を得るためには、自分が何かの点で他の誰かよりも秀でていなければならない。そうでないと居場所がない。わたしには暗にそんな強迫観念があったと思う。
だからわたしも、大人になって社会に出てもなお自分を誇示するところがあった。そして同僚が注目を浴びていたり、職場で業務内容を評価されている人がいると氣が氣ではなく、それに比べて自分はと自分を責めて落込んだ。退職後に速読を習ったのも、他のことを頑張ってきたのも、ただの純粋な好奇心だけではなかったように思う。こんなすごいことができるんだ、こんなに知識を持っているんですよ。周囲に対してそれを示すことで、他者からの賞賛と承認を得たい。だから、関係に摩擦が生じるのは分かっているのに年配者の知識に対して対抗しようとしたり、心の中で「それは違う」と批判する声や態度を止められない。わたしも平均以上にできることが多かったので、自覚している自分の能力を思うと余計に自己顕示欲求の制御は難しかった。
去年、そんなわたしの振舞いをじっと見つめていらしたお茶の先生から、3才の子どものような状態だと指摘を受けたことがある。そこから小学生までの間の部分が抜け落ちていると。他の人はうさこちゃんからすると大したことがない人に見えるかもしれないけれど、それは人としての土台がしっかりとあるからよ。あなたと話した後はどっと疲れる。頭がいいのにすごく勿体無いわ。他、色々と。なかなかに厳しい指摘だった。それから少し距離を置いて自分を見るようになった。そして先生は、別な時にこうも仰った。「人はみなそれぞれに美点があって、未熟なまま生きていて、それでいいのよ」と。
みん天の朝活で、できる子じゃないと愛されない、完璧じゃないと愛されないという信念があるのを自覚しつつ手放せなかったわたしには、その言葉は特効薬のような許しとなった。そこからわたしは、自分のできないことも、他の人に勝らない面も自分に認められるようになった。他者に譲れる場面も増えたし、自分がすごいことを示す必要が少なくなった。だって、わたしには何ができなくても許される居場所ができたから。
先の若手の心境は、こんなわたしと大体同じではないのだろうか。
人より優位に立たないと安心できないのも、自分を誇示してしまうのも、条件付きの愛情しか与えられてこなかったからだ。他人を細かく批判してしまうのも、同じ刃を自分にも向けている完璧主義の表れだ。他者との人間関係は上下関係でしかなく、自分が上か相手が下かをいつも推測っている。相手を敬う心はあるつもりなのに、なぜか挑戦的に映ってしまう。自分は間違っていないはずなのに、少しずつ少しずつ人間関係が長続きしない。これもわたしが優秀だから、場に合わないのかも。そんな理屈で自分を宥めるけれども、どこか寂しい。
わたしは両親から年長者や先輩方を敬いなさいと教わったことがない氣がする。よくよく考えれば、わたしの両親も知識偏重で学校の成績がよければ人間的に真っ当だと捉えていた節がある。それに家庭内で学校の先生を批判したり政治家を非難して、自分の方がすごい、自分達が正しい、相手が間違っているという姿勢が強かった。
これはわたしの家族に限ったことではないのではないか。戦後の占領政策で、GHQは日本国民に先の戦争への罪悪感を植付ける「War Guilt Infomation Program」政策を取った。先の世代の人間は間違っていた、自分達が正しいんだ。わたしの両親を始め、わたしやこの若手に共通する相手への敬意の喪失は、この戦後政策の影響もあるのかなと思ったりする。
また別の話で、たまたまこの若手と同じ学歴の知人がいた。高学歴にも関わらずフリーター経験のみで講座の講師業をしていたが、来客にお茶を出さない人だった。性格は明るく、仕事は頑張る人だった。だが、高額な講座の卒業式が買ってきたお惣菜での食事会だった。講師より年配の方達は、この講師の振舞いに唖然としていた。
反対に、八重山で出会ったある老人は、学歴は最底辺の高校卒だったが頭がよく、ある分野では並ぶ者のいない人なのに、思いやりに溢れていて周囲の人からとても頼りにされ慕われていた。事業的にも成功していた。みん天の鬼丸氏も高卒だが、世界中のことに関して本当に詳しいし、一日の労働時間が1時間の状態を達成しているらしい。まあ、彼は性格に難があるけど(笑)。
社会に出ると、学歴と業務成績が必ずしも一致しないことを知るし、学歴とお金が稼げることも全くの別物であることを痛感する。そして、学歴と人間的な成熟度も別物だ。わたしは退職後の様々な旅と出会でそのことを知り、価値観が揺さぶられた。学歴が役に立たない世界にも沢山触れた。
それに人の社会である以上、学歴が高かろうが低かろうが、先輩や上司、同僚に対しても敬意を払いながら仕事をすることは当然のことなのである。下っ端は汗をかいて駆けずり回り、準備や調整に奔走する。どんなに知識をひけらかしても、現場を動かす力も経験にも乏しくて大した戦力にならない自分がそこにいる。そういう経験こそが大事なのだと思う。知識肥大。知識だけが現実を動かす訳ではない。わたしは公務員時代に多少そういう経験ができた(当時は反発心の塊だったけれども)。
だからこそ、自分の小ささを自覚し、そこで自分ができることに努力をし、経験や実力を培ってきた年長者を敬い敬意を表する。自分がすごいんだと言う必要がないくらいに愛され大切にされている実感を自分で育て、実力を誇示する必要がないほどの実力と精神性を自分で育む。そして勝ち負けではなく、相手の人柄と調和の取れた心地よい会話ができるようになること、そんな関係が作れるようになること。
わたしは、これらの氣付きの中で、それまで上下関係だった対人関係が、みな一列に等しく並んだ横の平らな関係に姿を変えていくのを感じた。
そういう目に見えないことを理解していくことが、大人になることなのかなと思う。今回の出来事は、そういうことを考える機会になった。
こういった意見を仲間内で交わした時間が、それこそ互いへの深い敬意と理解に満ちていて、心地よい時間になったと口々に話した。わたしは少し大人になったかなと思った。

まとめ

きっとみな人それぞれに、大人になる過程で「大人になるとは」と考えたことがありますよね。
なんかね、わたしは大人になることって、目に見えないことなんだなと思った訳です。
今の社会で価値があるとされていること、例えば今回でいうならば、学歴や知識の多さ、成績・業績などですが、それは単に物事の一つの側面、限られたいくつかの要素でしかなくて、それら数字や肩書きで測れること以外にも、人間に関する目に見えない領域がふくよかに存在するのがわたし達のこの社会なんですよね。傲らないのも難しい、謙虚になるのも奥が深い。そのことが見えるかどうかって実は大事なのかなと感じた出来事でした。
そんなことをお喋りしながら分かち合えた時間がとってもとっても豊かでした。わたしも耳に痛い言葉を受取ることができたからだとも思いますし。年配者の方も後から反省してらして、そんな愛すべき年上の方と若手のどちらも許せたらいいな。それができたら、一番いいよね。

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