『父』-怒りと軽蔑-|わたしを織りなす物語②

随筆

はじめに

 前回の『母』の記事はこちら

 子どもの頃、わたしは父が大好きでした。

 明るくて面白くて、勉強の楽しさを教えてくれた。けれど大人になるにつれて、父への尊敬は失われ、怒りや軽蔑の感情が大きくなっていきました。

 お金の問題、家族の不和、会話の噛み合わなさ。そういう父の欠点。

 「親を許した方がいい」「父親を見下すとお金に苦労する」と言われても、簡単には受け入れられない。

 この記事では、わたしが父との関係を振り返りながら、父への怒りや失望、そして自分自身の内面と向き合った過程を書きます。

 親との関係に悩んでいる方や、父親への複雑な感情を抱えている方に読んでいただけたら嬉しいです。

『父』

 父は硬くて冷たい感じがする母とは違って、明るくてひょうきんで楽しい人だった。5人兄姉の末っ子で甘えん坊だったが、わたしのことも弟のこともとても可愛がってくれたし、一緒になって遊んでくれた。

 勉強ができて頭がいいという話だったし、小学生ぐらいまでは勉強もよく教えてくれた。「勉強って面白いんだぞ」という視点を教えてくれたのは、父だった。

 わたしは子どもの頃は断然お父さんっ子で、何をするにもお父さんと一緒がよかった。もちろん母のことも大好きで、小さい頃はよく弟と取り合いっ子をしたけど、何となく父との方が氣が合った。顔もお父さん似だねとよく言われた。

 けれど、父はお金を稼ぐ力がなかった。父の話によれば、上司と喧嘩をして地元の会社を辞めた後、自営業を始めたが、そこからの収益が全く上がっていなかった。

 大人になってから父のことを見ていると、なぜ父がお金を稼げないのかがよく分かるが、子どもの頃はただただ「大好きなお父さん」だったから、母や周りの人からそんな父の評価を聞くことも、母がそれで父に文句を言うことも、甚だ苦痛だった。

 一方、父も父で、小さく小さく分からないところでわたしを傷つけた。

 わたしが話している途中で興味がなくなると、会話の途中でもテレビを見る、関心を失う。自分の話しかしない。何か氣に入らないことがあると、怖い顔でわたしに詰め寄る。わたし達家族がやめてほしいことを、「いやだ」と言ってやめてくれない。

 わたしの話は、聞いてもらえる価値がないんだ、面白くないんだ。父に詰め寄られるのは怒られているのと一緒なぐらいに怖くて、理由はよく分からずわたしが悪いんだと思った。わたし達が嫌だと言うことも聞いてもらえない。胸の内側が大きくえぐられるように、自尊心はぐらついた。この自尊心の穴は、思春期に対人関係に影響していった。友人関係はうまくいかなかった。父は、大好きなのに嫌な存在だった。

 確か小学4年生の時だったと思う。父と母が、相手のいない所でわたしに互いの文句を言うことが続き、それが苦痛でたまらなかった。でも、誰にも相談できなかった。

 子どもの頃は分からなかったのだが、父は衛生観念が低かった。そして母も、実は大した違いはなかった。衛生観念が低いのは、暗に自分達や子どもを大切に扱っていないことに繋がる。

 他にも、書けば沢山ある。父が取り返しのつかない失敗をしている疑いもある。

 そんなこんなで、わたしが中学生の頃には両親がいつもお金のことで揉めていて、言い争いは日常茶飯事だった。立ててなだめての駆け引きができない母は、いつも父への攻撃一辺倒で、余計に家の中の空氣が汚れた。

 どうしてお父さんはお金のことでうまくいかないんだろう。なぜ母を悲しませるのだろう。どうして家族を苦しませるのだろう。「父親としての家族への責任を果たしていない」「母が働かなければ、うちはみんな路頭に迷っている」母の言い分はもっともだった。

 そうやって父を軽蔑し、嫌いになった。わたし達の家族は誰も父を尊敬せず、駄目な男だと見下した。

 ひょんなことで思考の学校の大石洋子(宮益侑嬉)さんとお会いする機会があり、そこから潜在意識について知った。わたしは退職後にかなり強いお金への不安を持っていることが分かり、宮益校長の話はわたしの状態にぴったりはまった。

 父親を見下している人は、お金の問題を抱えることが多い。お金への恐怖心は父親への見下しを見直すと改善する、と。

 大学生の時にわたしは鬱状態となり、大学のカウンセリングを受けていた。父への批判と母への擁護を繰り返すわたしに、カウンセラーは「問題はお母さんね」と言ったが、わたしはそのことが受入れられないぐらいに母子密着状態だった。

 そんな過去があるくらいに筋金入りの父批判精神だったので、父に本当に申し訳ないことをしていたと反省した。父に謝り、父の氣持ちを少しでも汲むように努めた。

 2024年に、父が鹿児島県の知覧にある特攻隊記念館に行きたい、家族旅行に連れて行きたいというので、渋る母を説得して、父の顔を立てて3人で旅行を組むことになった。

 「俺、スマホとか分かんないからさ、うささんが飛行機を取ってよ」

 え、わたしなの。っていうか、鹿児島って見所はどこなの。全く鹿児島について知らないわたしは、目的地も定まらない話に少し戸惑った。

 「鹿児島はどこに行くの」

 「俺は知覧に行ければそれでいいから、あとはうささんと母とで決めて」

 え。だって、後の観光名所は一体どこなの。日程的に行ける場所と行けない場所もあるだろうし。

 「何日間くらいを考えているの」

 「二泊三日かな。必要であれば三泊四日でもいいよ」

 「ちょっと待って。鹿児島ってどこに何があるのかも分かんないから、ちょっと調べてから、」

 「早く飛行機を取んないと値段が上がっちゃうから、俺は早く決めたいの。どこに行くでもいいから、先に飛行機を決めちゃってよ。俺はマイルがあるから、俺だけマイルが使えるようにして」

 え、って言ったって、母だって足の手術をして身体障害者手帳を持っているから、そっちだって調べてみないとでしょ。ちょっと待ってよ。っていうか、何であんたがそんなに偉そうに指図するんだよ。

 何とか航空券を取り、ホテルは現地での目的地を決めてから予約することにした。わたしは霧島に住む古武術の先生にもお会いできる日程を調整したかったので、最後にその件も伝えた、つもりだった。父とのやりとりは、なぜだか非常に疲弊した。

 霧島の先生と連絡が取れ、現地でお会いできることになった。先生は、知覧もいいが鹿島という地区は特攻隊員の最多出撃基地があり、運が良ければ米軍基地から飛ぶオスプレイも見られるという情報をくださった。それは父が喜ぶかもしれない。

 ホテルは父が予約していたが、先生とお会いする都合上、わたしだけ一泊分予約を取消したかった。父にホテルの連絡先やホテル名を聞いたら、分からないと言う。

 え、どういうことなの。

 「そんなの、空港に着いてタクシーに聞けば分かるでしょ。」

 わたし達に渡されたのは、Googleマップのかなり縮尺の大きい地図だけで、これじゃ何の手がかりもない。そして、空港がホテルからも知覧からもかなり離れた場所にあることも、把握していない状態でこんな話をしていた。

 「いやいや、ホテルの名前と住所と電話番号は控えるでしょう。じゃないと、お母さんとわたしはどこに泊まるのか分からないし、そのくらいはみんなに資料として配るよ」

 「何でさ。あなた方がホテルの情報を知らなくったって、俺と一緒に行動するんだから必要ないでしょ。しかも、あなたは霧島に行くなんて言っていない。俺は聞いていない」

 始まった。父と母には「言った、言わない」で揉め続けてきた歴史があり、どちらも譲らずいつも平行線に終わる。人前でも大声で言い合いをするので、わたしは内心心底うんざりしていた。

 先生のことは絶対に話題に出しているが、この父に関しては、何の証拠も残っていない話を議論するのは無駄である。

 「うさこは霧島の先生に会いに行きたいって言っていたよ」母が取りなしてくれたが、父との話は全く折合いがつかない。自論をわめき散らして譲らない父に、本当に本当に嫌氣が差した。

 こんな要領を得ない資料、新卒の子でも作らないって。

 鹿島の話を出す隙もなく、先生の好意を無下にすることもやり切れなかった。先生に何と言えばいいのだろう。

 何とかホテルを突き止めて予約を取消し、父の機嫌と都合に完全に合わせて、意見を挟まず、死んだ人形のように同行した鹿児島旅行の様子は、みなさんもお察しになるだろう。

 知覧以外は全て行き当たりばったりで、鹿児島名物を食べることもなく、父と母はそれでも何かしら観光地は回れたようで、よく分からないが満足したようだ。霧島の先生には、鹿島に行かなかった理由を何となく誤魔化した。

 ホテルは偶然にも観光の中継地にあり、そういう幸運がさらに父の自覚を阻むのだろうなと舌打ちしたい氣分だった。

 いや、きっと父はそんなことにも氣付かないだろう。全てが「分からない」「俺、できない」で、無関心だから。だったら、鹿児島旅行なんて行くなよな。怒りが込み上げる。

 父がお金を稼げない理由は明白だった。こんな上司も経営者も、見たことがない。事業が潰れる訳だ。

 帰郷後、父と会話をする氣持ちはもう持合せていなかった。

一応、桜島

まとめ

うさこ
うさこ

 親に対する怒りってどれくらいありますか。

 潜在意識的には、これって人生においてかなりな弊害を生むらしいですよね。でもそんなことを言われたって、この怒りは収まらないんだよ。理不尽なのは親だろう。

 ずっとそんな氣持ちでした。

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